クリスチャン2世の葛藤

クリスチャン2世の自分が感じる生きづらさを克服しようとするブログ

自己をなくした信仰

クリスチャンには本当に大変な境遇を通って、自分では生きていけないというところまできて、救われたという人がいる。こういう人の中には自己をなくして信仰のみによって生きている人がいる。そのような人は根本的に強い自己否定を抱えている。

うちの母もそのタイプだ。なので基本的には神に依存した生活をしている。そうすると、自分と神との関係の中だけに生きすぎて、周りの人の気持ちが見えていないのではないかと思う時がある。

私は信仰の波で落ち込んでいた時に、母から「私の人生の優先度は神>家族。だからもしお前(私)が信仰を持たず、否定してくるのであれば縁を切る。」と言われたことがある。とても悲しかったのを覚えている。

一般の健全な家庭であれば、家族が最も大切であってこんな言い方はしないのではないかと思う。一般的な家族でそれぞれに自己があって、直接向き合っているのに対し、我が家では神様というレンズを通して、私に向き合っていたのだと思う。だから私の本当の感情や意思が見えない。

父も同様で、私はこう感じるといったことに対し、「真実はこうであるから」と頑なに私の感情や意思を否定してくる。

我が家では、子どもの気持ちより信仰継承が大切で、聖書のテキストをやらせる。もちろん親である以上自分の価値観を教えることはあるんだろうけど、もう少し子どもの気持ちや感情を尊重してほしいなと思った。自己をなくした信仰は、自分の本当の感情を信仰で上書きしている面があって、それによって他者の感情を扱うのが難しいといった側面があるのではないかなと思った。自己否定が強いと他者肯定も難しくなるのだ。

一方で、自己を保ちつつ信仰を持っているクリスチャンもいる。私が出会ったクリスチャンでそのような方はいた。ノンクリスチャンの家庭で育って、結婚相手がクリスチャンだったがために聖書に触れ信仰を持ったそうだ。その人からは歪みをほとんど感じない。 健全な自己の発達による自己肯定感と信仰を両立できているのだろう。

後者は幸せそうにしているし、前者は不幸に見える。

クリスチャンでなくてもそうだ。

幸福であるかどうかはやはり自己肯定感(アドラー心理学では自己受容)をいかにして育んでいくかの方が大切と感じる。