クリスチャン2世の葛藤

クリスチャン2世の自分が感じる生きづらさを克服しようとするブログ

映画「沈黙 -サイレンス」を見て

「沈黙 -サイレンス」という映画の感想のブログ記事を見て、自分の今の状況と少し通ずるものを感じて内容が気になったので見てみた。 クリスチャン界隈に居た時は、遠藤周作とか三浦綾子等のクリスチャン作家が話題になっているのを耳にはしていたが、一度も読んだことがなかった。

信仰書はいくつか読んでいたものの、そもそも本(小説)を読むのがあまり好きではなかったのもあって興味を持たなかった。

今回この映画を見て、フィクションでありながら非常に現実味のある映画だなと思った。 登場人物の心境には共感できるところがたくさんあった。

信仰を公にすることの難しさ

映画の中に出てくる隠れキリシタンたちは、迫害に会うのを恐れて、役人や異教徒に対して自らの信仰を公にせず、バレないように生活をしていた。

状況は違えど現代のマイナー宗教信者も「信仰を公にすることの難しさ」を抱えていると思う。

自分は社会人になりたての頃はまだクリスチャンとしての信仰とアイデンティティを保っていた。 会社の人に「休みの日とかは何してるの?」と聞かれても、「私はクリスチャンで日曜日は教会に行っています」と言っていた。

反応は「へー、まじめやなー」とか「冗談でなくてほんとに言ってるんですか?」といったもので、それ以上踏み込んで話しをすると不快感を示されそうな雰囲気を感じた。 また、職場で「宗教」というワードが出る時は、「まるで宗教じゃないですか」とか「それただの宗教じゃん」と言った感じで、基本的には幻想や危ないものというニュアンスで語られる事が多い。 そのような反応は承知の上だったが、やはりつらいものがあった。

昔のキリシタンへの迫害は、今もなおあるこの不快感から来ているのだと思う。

なぜ宗教の話しは不快になるのか?」に関しては自分の中で答えが出ている。

それは「尊厳を傷つけてしまうから」と思っている。映画を見ていてもそう感じた。

人間は皆尊厳を持って生きている。長い年月を色々と苦労して何かしら自分なりの信条を持って、それに基づいて行動している。 その点ではクリスチャンも無宗教者も変わらない。

無宗教者がクリスチャンから「生き方が間違っている」と言われるのは尊厳を傷つけられることになる。 逆にクリスチャンが無宗教者に自分の信仰を否定されるのも同様である。

また、尊厳は家族や国といった共同体の単位でも存在している。 井上の対応は国としての尊厳を守るための行動だったのだ。(もちろんそれで他人の命を犠牲にすることはあってはらないことである。) 井上が「お前は私に負けたのではない、日本という沼地に負けたのである」と言っていることからも伺い取れる。

そういった人間の本質だけを考えれば、おのずと「宗教の話しはタブーにする」という行動が思いやりであり、日本社会ではそうなっている。

熱心なクリスチャンが、人の尊厳をよりも聖書の教えを忠実に守ろうとするとき、「みことばを述べ伝えなさい」に従い福音を伝えようとする。 それを聞いて本人が共感できなければ、尊厳を傷つけられた感だけが残る。

本来の人間であれば相手の尊厳を傷つけてしまった時「悪いことをした」と感じるが、クリスチャンは神の前に「正しいことをした」と考える。

だから、映画の中の司祭の行動も、クリスチャン視点では、果敢に福音を伝えていると見えるかもしれないが、 福音を受け入れられない人にとっては尊厳を傷つけていると写る

逆の立場で考えると、クリスチャンとしてあるまじき行動を強要されるのはその人の尊厳を傷つけることになる。

この映画で起きている悲惨な出来事はそんな尊厳の傷つけあいである。

祈ってもあるのは沈黙のみ

クリスチャンは「みこころを求めて従う」こと善とし、習慣としており、そのなかで神様にお祈りを行う。

「みこころに従うこと」=「聖書から神の意思を知り、それに従うこと」だと思っているが、 聖書に現れる神の意思を今ある現実に適用して何がみこころであるか判断するのはなかなか難しい

実際に「主の声が聴こえる」などという人もたまーにいるが、そうでない場合は自分でみこころと信じる道を歩むことになる。

信仰が殆どなくなっている私からすれば、結局本人の解釈次第なのではないかと思っている。

みこころと信じた選択の結果、良いことがあればそれはみこころに従った結果与えられた祝福であり、 悪いことがあったとその学びを通して祝福されていると聞く。

正直、人生の色んな出来事を前向きに捉えて生きようとする無宗教者とどんな違いがあるのか私には分からない。

しかし、「沈黙」の中では自分の行動によって、他の人が死んでいくというどう考えても前向きに解釈できないことが起きる。

自分の信仰を守る行動によって自分の命がなくなるのであれば殉教という選択をとるかもしれない。 そうではなく、自分は生かされたまま、人が死んでいく。

こんなことがなぜ起きるか、自分はどうすべきか、神様は答えをくれない。

結局棄教して長い年月がたったあと、 「沈黙していたのではない、ともに苦しんでいたのである」 という声を聞くことになるがこれは答えになっているのだろうか。。

自分と神だけの関係で見たら安堵が得られるのかもしれないが、それは周りの現実をシャットアウトしてこそ得られるのではないだろうか。。