クリスチャン2世の葛藤

クリスチャン2世の自分が感じる生きづらさを克服しようとするブログ

トラウマ

そんなこんなで信仰はほとんど無くなってしまった。今の苦しみの原点を探ると、自己の確立がうまくいっておらず、周りの人の顔色ばかり見ている自分にあると思った。私は周囲の人から認められ、承認欲求が満たされることによって自己を保とうとしてきたのである。

学校生活の中では、学校で良い成績を取ることや受賞等を目指し達成することによって自己を保っていた。クリスチャンのコミュニティでは、クリスチャンとしてあるべき活動をして、周囲の人からの承認を求めていた。そういった承認を原動力に何かを頑張るというのは悪いことではないが、一方でありのままの自分を受け入れられるという自己受容を育てることをさっぱりしていなかったと思う。

会社に入ってからは、会社の人(世の中の人)の承認を優先するようになり、クリスチャンとしての自分とは矛盾をかかえた言動をするようになった。教会ではクリスチャンとしての振る舞いが嘘っぽくなり、教会には居づらくなった。教会の人が来会者に求めているのはその人が救われることである。表面上ではどんな人でも歓迎しているが、その希望の元に歓迎しているのであって、その人のありのままではない。私のようなものは承認されない。そのことが分かるから、教会には居場所がないと感じ離れていった。

聖書の言葉はもう残念ながらほとんど入ってこない。 人から認められないことを恐れてビクビクしている。そもそもそんなに認められているわけではないのに。

一体いつからこんなに承認を求めるようになったのだろう。もしくは大人になってもそれを強く求めるのだろう。

クリスチャンは神様の愛で満たされているので人からの承認はいらないと言うが、私には分からない。 何度か感情の高揚によってそう思い込もうとした時があったが、それは長く続かなかった。

そうなってしまうと両親が注いできた神の愛とやらは偽りと思っているということになる。 両親の愛も私が救われるという希望に立っている。それは常に感じる。ありのままではないのだ。

学歴に執着する親子関係は子どもを苦しめるということが言われるが、信仰に執着する親子関係でも同じことが起きている。

「私はあなたのためを思っているからいい大学に入って欲しい」というのと「私はあなたのためを思っているからイエス様を信じて欲しい」というのはそんなに変わらないんじゃないかと思う。

通常の子どもは反抗期を通してその執着から脱出し自己を確立しているのだろうか。 私は反抗するスキもなかった。父に反抗すれば「子どもは親に従うもの!」と怒って手がつけられなくなるので諦めていた。 母はそのような父と暮らし、信仰によってなんとか生きているのを感じていたのでかわいそうで反抗できなかった。

ただ、社会人になって経済的に自立し、一人暮らしをすることによって「子どもは親に従うもの!」というロジックを崩すことができる状態だった。

私は前よりも自分の意見を言えるようになっていた。私が父に自分の考え、感情をもう少し話すようになった。

ある日、私は

「昨日は外で犬が吠えてうるさかったので、あまり眠れなかった」

と言った。

これに対して父は

「眠れてないと思っていてもそれは思い込みで事実としては寝れているんだ!!」

と言って相変わらず私の感情や意見を潰してきた。

私はただ自分が感じる体の状態を呟いただけなのに。

個人がそれぞれ自分の意見を持っていてそれが個人間で異なることはごく普通で常識だと思うのだが、父はそれをおかしいと思うらしく、自分の考え方以外を受け入れられない。他人の感情や意見を潰しに来る。(「私は違う」というスタンスではなく「潰しに来る」)。私は自分に正直になってそのときばかりはキレた。どんなに父が強く出ても自分を折らないようにした。また父の言動が私を傷つけていることを伝えた。私は謝ってくれといった。具体的に何を謝れとは言わなかった。

私が頑とした態度でいると、父は急に小さくなり、謝ってきた。

「○○(私)が、ハイハイし始めた頃、すごい勢いでお尻を叩いてしまい申し訳なかった。それ以来○○が急におとなしくなってしまった」

と。

私は「人の感情や意見を潰す姿勢を改めてもらいたい」と思っていたが、見当違いの返答が返ってきた。

そればかりかそんなことがあったのかと思わされた。

ハイハイし始めた頃とは1歳くらいのことだろうか。そんな時に虐待を受けると生涯に渡り心に大きな問題が残るという。 それが私のトラウマであり私の今の人格形成に大きく影響を及ぼしていると、腑に落ちた。

今の嫌なことをすべてを親のせいにしたいわけではないというわけではないが、嫌だったことを抑えて目をつぶるのではなく、受け入れられるようにしたい。