調子いいかも?
ここ2〜3年くらい、クリスチャン2世であることから生じた傷や葛藤に悩んでいたが、 最近割と調子が良くなってきて少しずつ前を向けるようになってきたので、やったことと感想をまとめてみる。
ブログをはじめる
これはこのブログのことだが、ブログを書く前は自分の感情や思考を整理する機会が無く、なんとなくモヤモヤして苦しむことが多かった。 「誰かに読んでもらうため」というよりも、「自分の思考の整理のため」という意味合いが強かった。
ただ、少ないながらもPVがあったり、コメントがもらえたりすると嬉しくて、こんな自分も誰かが見てくれてると思えて多少自信につながったと思う。 どう見られているかはあまり重要ではなく、とにかく見てもらえているということに意味があると思った。
Twitterをはじめる
上述したとおり、ブログを書くことは思考の整理になったが、1記事書くのに結構な労力がかかる。 そんなとき、カルト2世のTwitterアカウントをいくつか見つけ、共感できるツイートが多かったのでTwitterを始めることにした。
Twitterはブログと違ってちょっとしたことでもつぶやけるので、ブログみたいにまとめたりする必要がない。 なので、モヤっと毒が湧いたけどブログに書くほどではないということを余すことなく吐き出すことができる。 また、Twitterはfavやリツイート等の機能によって、人から共感が得られたということを実感しやすいため、これも気楽になれた要因の一つだったと思う。
不良教会員になる
信仰が自分には無いと感じて両親と対決してから、「教会に行かない」と決め込んで数ヶ月教会に行かない日々を過ごしていた。 しかし、生まれてから30年近くずっと教会に通っていたので体が落ち着かなかった。 反抗期くらいのタイミングだと、自然に教会を離れられる人もいるようだが、私の場合、幼少期から背負わされた罪悪感に苦しめられてしまって離れたら離れたでつらい気持ちになってしまう。
とはいえ、教会でクリスチャンっぽく振る舞うのもしんどいので「礼拝後のお茶会に雑談しにいく感じ」で、行けるとき行くようにした。 メッセージは適当に聞き流し、献金もせず(居場所代という意味でたまに入れている)、信仰的な話にも同調せず、それでも絡んでくれる人とだけ話した。 奉仕やイベント参加もしないようにした。
「20年間信仰を押し付けられるとこんな人も出るぜ。無かったことにしないでおくれ。」 というスタンスで行っており、自分が一番気楽でいられるのはこのスタイルだと思った。 迷惑を掛けているという負い目も最初はあったが、かつて被害を被った面もあると思うので気にしなくなった。 「自分にとって害となった教会(+親)と現在お世話になっている教会が違うのでは」とも思ったが、どこの牧師家庭、クリスチャンホームにも起こりうる話だと思ったのそれも気にしないことにした。
教会員に徐々にカミングアウトしていく
そんな不良教会員をしていると、「ちょっと今度話そう」という感じで話しかけてくる人がいる。 そこで1対1でコミュニケーションできる場で正直に自分の心境を話した。 1対1だと数の力で負けることはないので率直な気持ちを話しやすい。
私みたいな不良教会員に対する一般教会員の態度はいくつのタイプかある。
- あらためさせようとしてくる。
- お互い壁を作って会話しづらくなる。
- 普通に興味を持って聞いてくれる。
私の感覚だと、2のタイプが一番多い。1は自分が苦しくなって厄介なので自分から避けた。 3は少ないが稀にいて、このタイプの人はクリスチャンかどうかとか関係なしに人との付き合いができる人であり、私が気楽になる助けとなった。 話をする中で、「私は人の信仰を否定したい訳ではなくて、信仰関連で自分が傷ついたことを無かったことにしたくないだけ」ということが分かった。
親(母)と関係が改善する
信仰がないことを親に打ち明けた後は、信仰を挟まない親子関係がどういうことか予想以上に分からず、お互いギクシャクしていた。 母は「信仰が違うなら縁を切る!」みたいなことを言ってきたし、私も「勝手に救われてろ!」みたいな応戦をしていたので、それはそうなるだろうという感じだ。
今まで私の中に抑圧されていた「信仰絡みで親から言われて傷ついたことや接し方」をぶつけ、連絡を取らないようにしたりもした。しかし本音では、「信仰がないことも含めてありのままを愛してくれる親」と仲良くしたいと思っていた。そんな中、母から「今まであなたに依存していたところがあったかもしれない、私は私で神のみに依存していく。」と連絡があった。これは絶縁するというようなものではなく、「母が信仰するにあたって私を巻き込まない」という自立の表明に感じた。そこからは割と自然に会話できるようになった。
父は母より段違いに厄介であり、普段から連絡を取ることもないが、とりあえず母との関係は改善した。 これも心の安定につながったと思う。
まとめ
そんなこんなで、2世の葛藤は一区切り付きつつあり、思考内容が少しずつ他のことにシフトしている。まだ波はあるし、一生消えるものでもないと思っているがとりあえず現状の記録として残しておく。
居場所
最近、自分の居場所というのは大事だとつくづく思わされている。
社会人になるまではあるのが当たり前だと思っていた。 学校、教会、家庭、私の居場所は3つあった。 そこではそれぞれのペルソナが多少異なるにしろ、私が私であることを当たり前に感じられる場所だった。
社会人になり、知り合いが誰もいないところに飛び込んでいくことになった。 会社、教会、趣味のサークルなどに居場所を作ろうとした。 しかし、誰も私を知らないので、周りに合わせる部分は多かった。 活動的な教会でなれない奉仕に挑戦してみたり、関西のノリを理解しようと頑張ったり。
なにか新しい場に馴染もうとするとき、居場所があれば周りに合わせていても元の自分に戻れるので支えられる。 しかし、居場所が無いと元に戻れる場所がなく、自分がよく分からなくなってしまう。 だから自分の居場所を作っていく、守っていくというのは本当に大切だと思う。
一番大事な居場所は、外部ではなく、自分自身の中に作ることだったのかなと思わされている。 ここがしっかりすれば、周りには惑わされない。外部にも居場所を作りやすい。
はてさてどうするか。
あなたの愛はどこから?
「私の愛は神様から来ているよ。」と両親は言う。
でも私は神様を感じることができない。そしたら親の愛が虚に見えてしまって、結局私は誰からも愛されてこなかったのだと感じる。
普通の家庭の親子には愛があるのに。
進撃の巨人に見る2世信者の苦しみ
進撃の巨人の23-25巻を読んで、色々な伏線が予想外の形で回収されていって、すごく面白い展開だなーと思いつつ、どこか他人事でないように感じた。
冷静に考えてみると、ライナーの人生と心境が2世信者である自分と似ているのだ。
ライナーの人生と心境(ネタバレ注意)
ライナーはマーレで生まれたエルディア人で、親から名誉マーレ人になることを期待されて育った。 「エルディア人には悪魔の血が流れていて、エルディア人がしてきたことを償うにはマーレの戦士になり、 島にいる悪魔の末裔に制裁を与えなければならない」と親の強い願いを言い聞かされた。ライナーはその期待に応えようとした。
結果として他のどの戦士候補生よりも強い忠誠心を示し、戦士になり、島に派遣された。
ライナーはなるべく島のエルディア人になりすますために、本来の目的を隠し、島のエルディア人と接した。 マーレの戦士として島のエルディア人とは一線を引いていたが、徐々に島のエルディア人にも普通の暮らしがあり、思いやりがあり、楽しみがあり、悲しみがあることに気がついてしまった。
そして、自分が抱いた忠誠心は何だったのだろうと疑念をいだき、自分がしてきたことの取り返しのつかなさに絶望した。
私の人生と心境(似せている部分もある)
私はクリスチャンホームに生まれた人間で、親からクリスチャンとして信仰を持つことを期待されて育った。 「人間には罪があり、滅ぶべきものである。罪から救われるにはイエス・キリストを信じ、クリスチャンとして歩まなければならない。 クリスチャンはこの世と調子を合わせず、みこころに従わなければならない」と親の強い願いを言い聞かされた。私はその期待に応えようとした。
結果として、(ライナーのように特別に強い信仰を持ったわけではないが)、自分で信仰告白し、クリスチャンとしてこの世に遣わされた(社会に出た)。
私は社会人としてうまくやるために、信仰を隠し、この世の人たちと接した。 クリスチャンとしてこの世の人とは一線を引いていたが、徐々にこの世の人にも普通の暮らしがあり、思いやりがあり、楽しみがあり、悲しみがあることに気がついてしまった。
そして、自分が抱いた信仰とは何だったのだろうと疑念をいだき、自分のこれまでの人生の取り返しのつかなさに絶望した。
自分と重なる部分
似ているポイントは以下だと思う。
- 親が強い信条を抱いていて、日頃から自分に言い聞かせている
- 信条に自虐と排他的な救いがある
- 外の世界をよく知らないうちに親の信条を自分のものにする
- 外の世界を知っていくうちに、自分の信条が崩れ去る
- 崩れ去った信条を親や他の信仰者に伝えることができない
- おそらく伝わらないし、伝わったとしても自分と同じ以上の絶望を味わうだけ
- 居場所がどちらにも無くなり、生き方が分からなくなり死にたくなる
私の場合の違うところとしては、
- 殺すほどの排他性はないのでだいぶマシ
- 物語ではなく現実問題である
というところだと思う。
イスラム過激派等の人を殺しかねない宗教の信仰が失われたら進撃の巨人と同じ状況になると思う。
ユダヤを取り巻く世界が元ネタになっているという説もあり、そりゃあ似るよなぁと思った。
自己中心
私はとても自己中心的だと最近気づいた。
具体的には、人の幸せを祝えない、人に心から気遣いができない、自分が評価されていないとすぐやる気をなくす。
不平不満が多く、感謝のこころを持てない。
そんな状態に陥っている。
表面上の気遣いや感謝はぎこちなく、逆に不快感を与えてしまう。
このままでは人生は不幸のままだ。当然人にも嫌われる。
感謝を心がけて生きようとしているが、なかなか難しいものだ。
とにかく外の世界に対しての関心が低い。それを示すかのようにものや人の扱いも雑だ。
逆のことができれば幸せになれる気がする。幸せになりたい。
映画「沈黙 -サイレンス」を見て
「沈黙 -サイレンス」という映画の感想のブログ記事を見て、自分の今の状況と少し通ずるものを感じて内容が気になったので見てみた。 クリスチャン界隈に居た時は、遠藤周作とか三浦綾子等のクリスチャン作家が話題になっているのを耳にはしていたが、一度も読んだことがなかった。
信仰書はいくつか読んでいたものの、そもそも本(小説)を読むのがあまり好きではなかったのもあって興味を持たなかった。
今回この映画を見て、フィクションでありながら非常に現実味のある映画だなと思った。 登場人物の心境には共感できるところがたくさんあった。
信仰を公にすることの難しさ
映画の中に出てくる隠れキリシタンたちは、迫害に会うのを恐れて、役人や異教徒に対して自らの信仰を公にせず、バレないように生活をしていた。
状況は違えど現代のマイナー宗教信者も「信仰を公にすることの難しさ」を抱えていると思う。
自分は社会人になりたての頃はまだクリスチャンとしての信仰とアイデンティティを保っていた。 会社の人に「休みの日とかは何してるの?」と聞かれても、「私はクリスチャンで日曜日は教会に行っています」と言っていた。
反応は「へー、まじめやなー」とか「冗談でなくてほんとに言ってるんですか?」といったもので、それ以上踏み込んで話しをすると不快感を示されそうな雰囲気を感じた。 また、職場で「宗教」というワードが出る時は、「まるで宗教じゃないですか」とか「それただの宗教じゃん」と言った感じで、基本的には幻想や危ないものというニュアンスで語られる事が多い。 そのような反応は承知の上だったが、やはりつらいものがあった。
昔のキリシタンへの迫害は、今もなおあるこの不快感から来ているのだと思う。
「なぜ宗教の話しは不快になるのか?」に関しては自分の中で答えが出ている。
それは「尊厳を傷つけてしまうから」と思っている。映画を見ていてもそう感じた。
人間は皆尊厳を持って生きている。長い年月を色々と苦労して何かしら自分なりの信条を持って、それに基づいて行動している。 その点ではクリスチャンも無宗教者も変わらない。
無宗教者がクリスチャンから「生き方が間違っている」と言われるのは尊厳を傷つけられることになる。 逆にクリスチャンが無宗教者に自分の信仰を否定されるのも同様である。
また、尊厳は家族や国といった共同体の単位でも存在している。 井上の対応は国としての尊厳を守るための行動だったのだ。(もちろんそれで他人の命を犠牲にすることはあってはらないことである。) 井上が「お前は私に負けたのではない、日本という沼地に負けたのである」と言っていることからも伺い取れる。
そういった人間の本質だけを考えれば、おのずと「宗教の話しはタブーにする」という行動が思いやりであり、日本社会ではそうなっている。
熱心なクリスチャンが、人の尊厳をよりも聖書の教えを忠実に守ろうとするとき、「みことばを述べ伝えなさい」に従い福音を伝えようとする。 それを聞いて本人が共感できなければ、尊厳を傷つけられた感だけが残る。
本来の人間であれば相手の尊厳を傷つけてしまった時「悪いことをした」と感じるが、クリスチャンは神の前に「正しいことをした」と考える。
だから、映画の中の司祭の行動も、クリスチャン視点では、果敢に福音を伝えていると見えるかもしれないが、 福音を受け入れられない人にとっては尊厳を傷つけていると写る。
逆の立場で考えると、クリスチャンとしてあるまじき行動を強要されるのはその人の尊厳を傷つけることになる。
この映画で起きている悲惨な出来事はそんな尊厳の傷つけあいである。
祈ってもあるのは沈黙のみ
クリスチャンは「みこころを求めて従う」こと善とし、習慣としており、そのなかで神様にお祈りを行う。
「みこころに従うこと」=「聖書から神の意思を知り、それに従うこと」だと思っているが、 聖書に現れる神の意思を今ある現実に適用して何がみこころであるか判断するのはなかなか難しい。
実際に「主の声が聴こえる」などという人もたまーにいるが、そうでない場合は自分でみこころと信じる道を歩むことになる。
信仰が殆どなくなっている私からすれば、結局本人の解釈次第なのではないかと思っている。
みこころと信じた選択の結果、良いことがあればそれはみこころに従った結果与えられた祝福であり、 悪いことがあったとその学びを通して祝福されていると聞く。
正直、人生の色んな出来事を前向きに捉えて生きようとする無宗教者とどんな違いがあるのか私には分からない。
しかし、「沈黙」の中では自分の行動によって、他の人が死んでいくというどう考えても前向きに解釈できないことが起きる。
自分の信仰を守る行動によって自分の命がなくなるのであれば殉教という選択をとるかもしれない。 そうではなく、自分は生かされたまま、人が死んでいく。
こんなことがなぜ起きるか、自分はどうすべきか、神様は答えをくれない。
結局棄教して長い年月がたったあと、 「沈黙していたのではない、ともに苦しんでいたのである」 という声を聞くことになるがこれは答えになっているのだろうか。。
自分と神だけの関係で見たら安堵が得られるのかもしれないが、それは周りの現実をシャットアウトしてこそ得られるのではないだろうか。。
トラウマ
そんなこんなで信仰はほとんど無くなってしまった。今の苦しみの原点を探ると、自己の確立がうまくいっておらず、周りの人の顔色ばかり見ている自分にあると思った。私は周囲の人から認められ、承認欲求が満たされることによって自己を保とうとしてきたのである。
学校生活の中では、学校で良い成績を取ることや受賞等を目指し達成することによって自己を保っていた。クリスチャンのコミュニティでは、クリスチャンとしてあるべき活動をして、周囲の人からの承認を求めていた。そういった承認を原動力に何かを頑張るというのは悪いことではないが、一方でありのままの自分を受け入れられるという自己受容を育てることをさっぱりしていなかったと思う。
会社に入ってからは、会社の人(世の中の人)の承認を優先するようになり、クリスチャンとしての自分とは矛盾をかかえた言動をするようになった。教会ではクリスチャンとしての振る舞いが嘘っぽくなり、教会には居づらくなった。教会の人が来会者に求めているのはその人が救われることである。表面上ではどんな人でも歓迎しているが、その希望の元に歓迎しているのであって、その人のありのままではない。私のようなものは承認されない。そのことが分かるから、教会には居場所がないと感じ離れていった。
聖書の言葉はもう残念ながらほとんど入ってこない。 人から認められないことを恐れてビクビクしている。そもそもそんなに認められているわけではないのに。
一体いつからこんなに承認を求めるようになったのだろう。もしくは大人になってもそれを強く求めるのだろう。
クリスチャンは神様の愛で満たされているので人からの承認はいらないと言うが、私には分からない。 何度か感情の高揚によってそう思い込もうとした時があったが、それは長く続かなかった。
そうなってしまうと両親が注いできた神の愛とやらは偽りと思っているということになる。 両親の愛も私が救われるという希望に立っている。それは常に感じる。ありのままではないのだ。
学歴に執着する親子関係は子どもを苦しめるということが言われるが、信仰に執着する親子関係でも同じことが起きている。
「私はあなたのためを思っているからいい大学に入って欲しい」というのと「私はあなたのためを思っているからイエス様を信じて欲しい」というのはそんなに変わらないんじゃないかと思う。
通常の子どもは反抗期を通してその執着から脱出し自己を確立しているのだろうか。 私は反抗するスキもなかった。父に反抗すれば「子どもは親に従うもの!」と怒って手がつけられなくなるので諦めていた。 母はそのような父と暮らし、信仰によってなんとか生きているのを感じていたのでかわいそうで反抗できなかった。
ただ、社会人になって経済的に自立し、一人暮らしをすることによって「子どもは親に従うもの!」というロジックを崩すことができる状態だった。
私は前よりも自分の意見を言えるようになっていた。私が父に自分の考え、感情をもう少し話すようになった。
ある日、私は
「昨日は外で犬が吠えてうるさかったので、あまり眠れなかった」
と言った。
これに対して父は
「眠れてないと思っていてもそれは思い込みで事実としては寝れているんだ!!」
と言って相変わらず私の感情や意見を潰してきた。
私はただ自分が感じる体の状態を呟いただけなのに。
個人がそれぞれ自分の意見を持っていてそれが個人間で異なることはごく普通で常識だと思うのだが、父はそれをおかしいと思うらしく、自分の考え方以外を受け入れられない。他人の感情や意見を潰しに来る。(「私は違う」というスタンスではなく「潰しに来る」)。私は自分に正直になってそのときばかりはキレた。どんなに父が強く出ても自分を折らないようにした。また父の言動が私を傷つけていることを伝えた。私は謝ってくれといった。具体的に何を謝れとは言わなかった。
私が頑とした態度でいると、父は急に小さくなり、謝ってきた。
「○○(私)が、ハイハイし始めた頃、すごい勢いでお尻を叩いてしまい申し訳なかった。それ以来○○が急におとなしくなってしまった」
と。
私は「人の感情や意見を潰す姿勢を改めてもらいたい」と思っていたが、見当違いの返答が返ってきた。
そればかりかそんなことがあったのかと思わされた。
ハイハイし始めた頃とは1歳くらいのことだろうか。そんな時に虐待を受けると生涯に渡り心に大きな問題が残るという。 それが私のトラウマであり私の今の人格形成に大きく影響を及ぼしていると、腑に落ちた。
今の嫌なことをすべてを親のせいにしたいわけではないというわけではないが、嫌だったことを抑えて目をつぶるのではなく、受け入れられるようにしたい。